自閉症児と共に生きる

知的ハンディキャップのある自閉症児との味わい深い人生

気が滅入る時は深呼吸しよう。

昔は毎日泣いていた。今はほとんど泣かない。

障害のある子どもを育てていると、楽しく豊かな時間がある一方で、ものすごく気が滅入る時もままある。

というか、障害受容が進んでいなかった時はむしろ毎日が辛くて、毎日泣いていた。

療育へ向かう車を運転している時(ひどい泣き顔を隠すためにサングラスかけてた)、夜子どもが寝静まったなかでパソコンでfacebookを見ている時とか「子どもがこんな絵を書いてくれました」「ひとりで文字が書けるようになった。すごいね!」とかそういったコメントを読んでは、我が家とのほど遠い差を感じて、泣いていたり。

見なきゃいいのに、読んじゃったりして。むしろ泣きたいから読むんでしょ?と自分にツッコミを入れたくなるぐらい、毎日泣くことが日課みたいな。

 

が、そういう落ち込む日々を過ごすと、いつのタイミングかであまり泣かなくなる。

それは、障害児との子育てに終わりがないことにようやく気づくから。

泣いて終わりがくるのであれば、いくらでも泣くのだけど、泣いても終わらないことを自覚していくので、そこからは割と泣かなくなってくる。

 

すると不思議と、人と比べなくなり、自分の子育てを肯定できるようになってくる。

息子との日々が面白いなと感じられるようになったり、穏やかで落ち着いている息子の顔を見ると、感謝の気持ちすら湧いてくることだってある。

そうはいっても地雷はそこかしこにある

ただ、それは「落ち着いて穏やかな」息子の時に感じること。

まだまだ条件付きでしか、息子の自閉症特性を肯定できていない自分に気づく。

そう思ったのは今日の学童の付き添いの時。

小学校のプールが始まったのだが、息子が行きたくないと大騒ぎして、奇声&自傷オンパレードで乱れたのだ。

前日の夜に事前に告知もしていたし、その時は「うん、僕頑張る」と言っていたのに。

もしかしたら無理していたのかもしれない、その時は真剣に頑張ると思っても、いざ目の前にプールに行かなくちゃという現実に目を向けた時に嫌になっちゃったのかもしれない。なのだが、耳をつんざくような奇声と、それに伴ってこちらを叩いて抵抗してくる息子と向き合うのは、なかなかに辛い。

 

そんな時に、定型発達の子どもが普通にプールバッグを抱えて、暴れて乱れている息子の横を通り過ぎるのを見ると「どうしてうちの子どもは普通のことができないんだろう」の「どうして?どうして?どうして?」ループに呑み込まれていく。

 

そういう時だ、鼻の奥がツーンとなり、自然と涙が流れ落ちてきそうになるのは。

ただ、ぐっと我慢する。大人だから。絶対に人前では泣かない。

泣くなら自分ひとりの時だと決めている。

地雷はそこかしこに潜んでいるのだ。

 

東田直樹さんの本の一説に救われる

飛び跳ねる思考」のなかにこんな一説がある。

苦しくてたまらなくなると、空を見上げます。

目に飛び込んでくるのは、抜けるような青空と白い雲です。

見ている僕はひとりぼっちなのに、世界中の人とつながっている気分になります。

自然はどんな時も、人々に平等です。そのことが僕の心を慰めてくれるのです。(中略)

つらい気持ちは、どうしようもありませんが、ひとりではないと思える瞬間が、僕を支えてくれます。

 

これを読んで以来、泣くのを我慢する時、空を見ながらすーーーっと深呼吸するするようになった。鼻から思い切り息を吸って、ゆっくりと時間をかけて吐いていくと、気持ちが落ち着くようになった。

 

9月が始まり、2学期になると運動会の練習等でまたしんどい時期が来るだろう。

その時に、私の心が強くならないと、息子のことは支えられない。

深呼吸&鍛錬で、乗り越えたいと思う。